また愚痴みたいな記事で恐縮なのですが……

どうも、たかしです。

実は僕、ウシガエルを未だに捕まえたことがありません。

野食を志す身としては、ぜひとも一回は食べてみたいと思っているのですが、捕獲するのが思った以上に難しくて……。

夜間の作業のためにヘッドライトをつけて…

水の中でも入っていけるようにウェーダーを着て…

確実に捕獲するためにタモと釣竿を両手に携えて…

単身近所の川に入り込んで、ウシガエルを夜な夜な探し回っていたわけです。

さて、皆さんはふと夜の川を見た時にそんなおっさんが目についたらどのように思うでしょうか。

「うわっ、なんだあの怪しい奴は」と思いますよね、ちなみに僕だったら思います。

それは別に良いんです。そのように思うこと自体は何も問題ではありません。だって事実怪しいですから。

夜の川に1人完全装備のおっさんがいて、それを見て「あ、ウシガエル取りの人かな? 怪しくない♪怪しくない♪」などと考える人がいたら、この世界から戦争はとっくに無くなっています。

だからこそ、僕の主張は「人を怪しく思うな」というようなことではないんです。人の思考というものは、どだい他人がどうこうできるものではありません。それどころか、自分自身にだってどうすることもできないのが人の心というものです。恋しちゃいけないお兄ちゃんへの恋心を、おませな妹が抑えることができないのだって同じです。仕方がないのです。ちなみに僕は大好物です。

では、僕が主張したいこととは何なのかというと……

それは、「怪しい、不審な人物だとしても雑に扱うな」ということに尽きます。

世の中は、社会の枠組みから外れたものに厳しすぎる

こちらは、以前の記事で投稿した虫取り中におばさんに怒鳴られた漫画ですが……

今回の事件と遭遇しているのは「僕がふつう大人がやらないことをやっている時に」「知らない人に突然怒鳴られる」といった点です。

なぜふつうと異なった行動をしているというだけで、知らない人からいきなり怒鳴られなくてはならないのか? 僕はそこに、人間社会に潜在的に蔓延っている「異端者は下の存在であり、どう扱ってもいい」という思想が影響しているような気がしてならないのです。

古くは1000年ほど昔の中世の時代から、ヨーロッパではキリスト教の教義にそぐわない者を排し、「異端者」として公的に迫害してよい存在としていた背景があります。

日本においても今から500年ほど前の江戸時代に、多くの者がやりたがらない仕事を生業とする人たちを「えた・ひにん」として差別対象にとしたという歴史があります。

今現在ではこれらの制度は廃止され、社会からは根絶されたとされていますが……果たしてそのことによって人間という生物が持つ差別意識というものが無くなったと言えるでしょうか? 本当に無くなっているのであれば、僕がウシガエルを探している時に怒鳴られることも無いし、虫取りしているだけで犯罪者扱いされることだって無かったはずです。

人類の差別意識は……「普通から外れたものであればどう扱っても構わない」といった心理の傾向は、無くなってはいないと僕は考えています。それらは、中世や江戸時代とは形を変えて、SNSやネットの力を得てむしろますます拡大しているのではないかなと。

近年問題視されているネット上の誹謗中傷や炎上問題だって、「こいつは悪いことした、『普通』ではない奴だからどんな目に遇っても構わない」といった差別意識からきているのではないでしょうか。

どれだけ制度を変えたところで、人々の意識を変えることが出来なければどこかでひずみが生じるのです。差別をなくすためには、まずは人間一人一人が「どのような他人であっても、自分と同じ尊重されるべき存在」という認識を持たなくては争いは無くなりません。

まあ無理だと思いますけどね。僕は他人に対してそんな期待を寄せることはもう当の昔に諦めました。

だから、この記事は提言や啓蒙などでは決してありません。ただの社会から外れた不審なおっさんの愚痴にすぎないのです。

こんなところで今回の記事は終わりです。

また次回の記事でお会いしましょう。ここまでお読みいただき、ありがとうございました。