どうも、たかしです。

最近、僕のブログやYOUTUBE動画を見てくれている知人・友人から、このような意見を頂くことがあります。

「小屋建てている動画を見たけど、何だかあまり楽しそうじゃないよね」

「もっと小屋暮らしの優雅に過ごしているような様子を見れたらいいのに」

……これらの意見に対し、僕は声を大にしてお伝えしたいことがあります。

小屋暮らしには優雅さなどという物は欠片も無いし、基本的に楽しいなどでも無いです。

ブログ記事やYOUTUBE動画を見ていただいていることは本当に有難いことです。もしも僕が発信している情報が見ている方の期待に沿えずやきもきさせていることがあるのであれば、それは申し訳ないとも思います。

どうやら世間一般的な見方だと、小屋暮らしをするということは「のんびり気ままなスローライフ」を実現しようとしていると捉えられることが多いように、色々な方からのリアクションを見ていて感じます。

しかし、少なくとも僕自身は小屋暮らしに対して楽しさとか優雅さとか、そういったものを求めているのではないということを今回の記事を通してお伝えしていきたいと思います

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①楽しさ、優雅さを求めるのは小屋暮らしじゃなくてもいい

言うまでもなく、山奥小屋暮らしは不便な生活です

すぐ近くにスーパーもコンビニも無く、娯楽施設なんてものは良くて沢での水遊びか、神社仏閣巡りをするぐらい。最寄りのファミレスまでは車で片道30分以上。

庭を歩けばマダニにハチ、吸血アブなど危険生物に囲まれ、日が沈めば辺りは真っ暗で、小屋から出て空き家に移動するのにもスマホライトが欠かせない。そんなのが山奥小屋暮らしの日常です。

そんな生活が、楽しくて優雅であるなんてことがあり得るでしょうか?

もちろん小屋暮らしにだって楽しい「瞬間」はあります。比較的優雅に見える「瞬間」もあるでしょう。

小屋を建てている時も、床が完成した時や自分の想定通り壁パネルを組めた時は「やった!」と思いましたし、完成して引っ越しした時は胸が躍りました。

平日の朝、目が覚めてから出勤準備に追われることも無く、冷房で涼しい小屋内でコーヒーを啜っている僕ははたから見たら優雅だと思えることでしょう。

でも、じゃあだからといって僕がそれらを求めて山奥小屋暮らしを始めたのかというと、決してそんなことは無いということは押さえておきたいのです。

別に小屋を建てること自体は、山奥の空き家をわざわざ買って移り住まなくてもできたことです。もっと手頃で狭い土地を買って、建築は通いで。小屋が完成した後は休日に避難する秘密基地的存在に……そんな方も実際たくさんいらっしゃるようです。

平日朝からコーヒーをのんびり飲むことは休職していたころだってできていたことですし、バイト生活で夕方からのシフトであれば同じことは可能でしょう。

「楽しくて優雅な生活」を実現する方法はこの社会にいくらでも存在していて、多くの人が自分の生活を維持しながらバランスよくそれらを追及しているように思います。

そして、そういったことを追い求めるための手段として考えた場合、「山奥小屋暮らし」などという物はむしろ非効率で、むしろ対極に位置しているのでないかとさえ僕には思えます。

楽しくて優雅な生活を求めて小屋暮らしをしようとしている人がいるなら、僕は全力で「止めとけ」と言い張るでしょう。

では、僕はなぜ小屋暮らしを始めたのか。何を小屋暮らしに求めているのか。

僕は、小屋暮らしという物がこれまでの人生全てを投げ打ってできる「何か」であると思った。だから小屋暮らしを始めたのです。

③現状は自分の求めている人生とは違うという確信

僕の人生というものは順風満帆そのものでした。

前職で鬱になり休職するまでは。

過去のYOUTUBE動画でも述べたことがありましたが、高校・大学受験では希望の学校へストレートで入学し、その後の就活でも教員採用試験に碌に勉強せずに一発で合格することができました。

それまでの僕は、おおよそ一本道のレールの上を粛々と走る列車のようでした。

でも、そんな日々でも常に頭の中は疑念で満たされていたのです。

「自分の人生はこれでいいのか?」

「現状が本当に自分が求めている物なのか?」

だからこそ、仕事がうまくいかずに鬱になり休職に入った時、自分の中の疑念が確信に変わってしまったのかもしれません。

「やはり今の状況は自分の求めている物では無かったのだ」

「自分にふさわしい物はこれでは無かったのだ」

と。

これまでの人生の否定……というよりは、それを更に超えるぐらいの「放棄」に近い行為を僕はしたかった。

これまで積み重ねた物を無駄にし、無為にし、対極に位置するような環境に身を置くことで、これまで散々振り回されてきた「自分の求める人生」というのが何なのか、それが知りたかった。

……いいえ、何なら知ることができなかったとしても良いのです。

分からないままでもいいから、とにかく「これではない」ということが明らかなこれまでの人生から逃れたかった。

それこそが僕が小屋暮らしを始めた理由なのです。

③きっと誰もが現状に納得したくて今日を生きている

現状、小屋暮らしが本当に自分に合っていて自分が求めている「我が人生」たり得る物なのか判然としているかというと、そんなことは当然ありません。

完成した小屋は快適ですが、それでも猛暑日の日中は直射日光で流石に暑いですし、洗濯機は未だに壊れたままで毎日タライで洗濯するのももういい加減しんどくなってきました。

楽しいかどうかで言えば「働いていたころよりはマシ」、優雅かどうかで言えば「時間は大量にあるが、あらゆる行為が街に住むより倍以上時間がかかるからトントン」、まあとにかく「大変だし面倒なことも多いが、後悔するほどではない」って感じです。

そもそも、現状の人生が「私にこそこれがふさわしい」などという確信をもてている人など一体どれだけ存在するものでしょうか?

ほとんどの人は、今ある自分の人生にどこか疑問を持っていて、「より良い物がどこかにあるのではないか」と思いつつも、今ここにある物との折り合いをつけて自分を無理やり納得させているものなのではないでしょうか?

あるいはどうしても納得することができず、しゃにむにそれを追いかけることに人生を費やすような種類の人も中にはいて、でもほとんどの場合は最後の瞬間まで納得できずに生をおえていくのではないでしょうか?

僕はどちらかというと後者の人種に当たるのだろうと思います。

現状に満足するのが下手で、ありもしない理想の世界や人生を夢想しそれをどうしても追い求めてしまう、そんな救いようのない生き物ががきっと僕という人間なのです。

だから僕は、今日もそしてきっとこれからも、一人山奥でマダニやアブと格闘しながら、不平不満たらたらで草刈りをして生きていくことになるのでしょう。

以上で今回の記事は終わりです。

また次回の記事でお会いしましょう。ここまでお読みいただきありがとうございました。