note記事を投稿しました。

「弱者男性はどこへ往く」シリーズも第5章に入りました。残りあと3章(予定)です。

今回の章は、数年前からよく話題に上がるようになった「無敵の人」的な内容の記事になっています。

「無敵の人」と「弱者男性」を結びつけて語る論は割とありがちだと思うんですが、この2つの言葉ってどっちの方が先に世に出始めたのかって言うのが気になって少し調べてみました。

完全にwikipediaソースで恐縮なのですが、初出は「無敵の人」の方が早いようでひろゆき氏が発言したのが2008年頃とのこと。一方「弱者男性」の方はこれといった初出の情報が無くネット上で2010年代ごろから広まり始めたという認識がぼんやりとある程度のようです。

弱者男性について語っている代表的なトイアンナ氏の著書「弱者男性1500万人時代」が2024年4月の出版ということを考えると、やはり「弱者男性」という言葉の方が比較的新しい言葉だと言えるとは思います。

つまるところ、「一般的な犯罪行為とは一線を画しているとしか思えない異常な通り魔・テロ的行為」が社会に見られるようになって、それを「無敵の人」によるものだと考え、さらにその根底には「弱者男性」という存在があるのではないか、という順番に認知されていったんじゃないかなと。

ちなみに僕自身は「無敵の人」を無くすためにどうしたらいいと考えているかと言うと、「無敵の人はあってはならない」とせず「無敵の人は当然現れるよね、世間はそれを受け入れるべきだよね」と認識することこそが第一歩になると考えています。

恐らく世間の大多数の人が「このまま人権社会が続くこと」を願っているのだと思いますが、僕の考えではそれはイコールで「弱者男性が生まれ続けることを容認すること」なので、ならば当然「無敵の人の出現も容認している」ということになります。それなのに「人権は維持したいけど、無敵の人は出てきてほしくない」というのはちゃんちゃらおかしいです。「肉は食いたいけど動物には死んでほしくない」と言っているようなものです。

ですが、「自分が、もしくは家族や仲のいい人が無敵の人の被害にあうのは嫌だ」という気持ちはもちろん僕だって理解できます。でも、だからって無敵の人を非難するようなことをしたところで、恐らくですが無敵の人が増え続けることにしかならないんじゃないかなと。

「無敵の人」は即ち「社会に復讐したい人」なのですから、社会的に「これはダメ」とされるものの中に「無敵の人」があったら、そりゃ無敵の人を非難する限り無敵の人は増え続けますよと。

だから、提案としては「無敵の人に襲われたくない人は、無敵の人がいないであろう場所もしくは無敵の人の復讐対象にならないであろう場所に引っ越す」=「山奥小屋暮らしをする」というのはいかがでしょうか?

隣人が迷惑な人だったら、その迷惑な人を正すのではなく自分が引っ越すのが最も手っ取り早いということですね。もちろん日本社会の中にいる以上は無敵の人に当たってしまう可能性は0では無いのですが、無敵の人を非難し続けて無敵の人がいなくなる可能性に賭けるよりはよっぽど現実的なんじゃないかと思います。

え? 「山奥小屋暮らしをしているお前みたいな無敵の人予備軍がいるじゃん」って?

はい~ロジハラ~。