今回から試験的にエッセイ的な内容の記事の投稿を始めています。
理由は、毎日投稿するためのネタが最近枯渇してきていることと、画像だらけの記事だとレンタルサーバーの容量を圧迫すること、毎日更新を今後どうするか考えている時期であることなど色々ありますが、一旦ここらで自分の考えをまとめておきたいという気持ちもあります。
そのためこれまでと若干毛色の異なる記事となることをご了承いただけたらと思います。
どうも、たかしです。
小屋が完成して早くも1週間ほどが経ち、現在は次なる小屋暮らし開拓のための足掛かりとして農地の草刈りを少しずつ進めています。
草刈りをしていると、多くの昆虫が雑草のすき間から姿を現します。クモ・バッタ・芋虫・カマキリ……それらは農地に繁茂した草地を生息地としていた生き物たちです。
「それら生き物たちの住処を僕は奪っている」
そんな風に思い、罪悪感を覚える瞬間が草刈り中にしばしば訪れます。
しかし同時にこんな風にも考えるのです。
「果たして僕はこのことに罪悪感を覚えるべきなのだろうか?」
そして次の瞬間には結論付けるのです。
「いや、罪悪感を覚える必要はない」
と。
では、どうして僕はそのように結論付けたのか。なぜ僕は僕自身に対し……延いては人類に対し、他の生き物の住処を奪うことに罪悪感を覚える必要などないと思うに至ったのかについて、今回の記事では言及していきます。
①なぜ罪悪感を覚えるのか
まず大前提として、人間は罪悪感を覚える生き物だということを抑えておきたいと思います。
なぜ人は罪悪感を覚えるのか、そのヒントとなる心の動きにに「同情」というものが存在すると僕は考えています。
例えばですが、同じ草刈りによって逃げまどう昆虫に対して、僕はバッタやカマキリに対してそこまで強い罪悪感は覚えません。なぜならば、彼らであればその機動力・飛翔力でもってまた別の草木の生い茂る場所へ移動できるだろうと考えているからです。
その場その場での環境の変化に応じて、自らの意思と身体能力で持って自由気ままに住処を変えて生きて行く……そんな姿にはむしろ憧憬の情すら湧いてくるほどです。
しかし逆に、芋虫だったりバッタの小さな幼虫だったりといった愚鈍な昆虫が、僕が草を刈ったことにより地面に横たわりジタバタともがいている様を見る時には強い罪悪感を覚えるのです。
それは、僕が彼らと自信を重ねて同情してしまうからです。
僕が芋虫の立場だったら……これはある日穏やかに暮らしていた自分の住処を、ある日突然怪物がやって来て破壊し尽くしていったようなものだ。そのように感じ、芋虫に対して罪悪感を抱いてしまうのです。
つまり、自分以外の生き物に対して「もし僕が彼の立場だったら」「僕が彼だったらこう思うだろう・こう感じるだろう」と想像を働かせることによって、罪悪感は加速していくのです。
僕が敬愛する映画監督「高畑 勲」氏が製作した「平成狸合戦ぽんぽこ」などは、そのような人間の心の動きに大いに働きかける作品となっています。
私たち視聴者は、人間たちにより山を追われ、故郷を奪われ蹂躙されてしまうタヌキの境遇に自分を重ね、同情することで罪悪感を刺激され、「自然を大事にしなければ」「人間はなんて罪深い存在なんだ」といった気持ちを抱いてしまうのです。
②生き物のすみかを奪うことへの罪悪感の必要性について
人間が他の生き物に対して自らの境遇を重ね、同情することで発生する罪悪感という感情……僕は先に述べたように、そのような物は特に山奥で小屋暮らしをする際に置いて全く必要ではないと考えています。
なぜならば、僕もまた草木の中で生きている彼らと同じく必死に生きていて、その結果彼らの住処を奪うことは全く罪深いことでは無いと思うからです。
人間という生き物は、生い茂った草木の中で生活できるようには全くできていない構造になっています。
尖った植物から身を守るための硬い皮膚も、マダニなどの吸血生物に取りつかれないようにするための厚い毛皮も、人間は全く持ってはいません。
もちろん服や靴を重ねて着こめば一時的に身を守ることはできますが、常日頃からそんな完全防備の体制で過ごすことはできませんし、自分の住処でそのような落ち着かない格好で過ごすことを強いられてしまったらそれこそ生命の危機です。
草が生えるのに任せて放置してしまえば、マダニはますます生息域を広げ、獣の侵入頻度も増えるばかりです。いつまで経っても農地を活用することができず、畑は作れず、いずれ貯金は尽きて飢えることになるかもしれません。
そんな中、罪悪感を覚えて「芋虫が可哀そうだから」などという理由で草刈りを辞めることなどできるでしょうか?
答えは否、です。人間は繁茂した草木の中で生きることなどできません。共存など不可能なのです。
これら事情がある中で、果たして草刈りをして彼ら多くの生き物の全てを奪う僕という存在は罪深い存在だと言えるのでしょうか。罪悪感を覚えて、申し訳なさを覚えて、せせこましい思いをして生きて行く必要があるのでしょうか?
僕はそうは思いません。僕と彼らは対等なのです。どちらも自分の生存を図るのに必死で、そのためには他の生き物のすみかを奪うことになろうとも構わない、それこそが生命のあるべき姿なのではないかとすら思います。
にもかかわらず、全く違う構造をした生き物である芋虫やバッタに勝手に自信を重ね、自らを「住処を蹂躙する怪物」などとありもしない上位存在に置いて同情するなど、それこそ他の生き物に対して失礼なのではないかとすら考えるのです。
③日々を懸命に生きている存在に上下などない
現代日本において、多くの人類は土や草木が埋め立てられた言わば「コンクリートジャングル」の中で生活しています。
草木やそこに住む生き物たちは徹底して管理され、庭や街路樹、自然公園などごく一部でのみ保護されていて、もはや「人間は他の生き物を全て支配している」といった感覚を抱いていしまうのは仕方のないことでしょう。
しかし、人類は別に「我々は上位の存在だから他の生き物を全て支配してやろう」といった目論見をもって地面をコンクリートで埋めて行ったわけではないと僕は考えています。
人間は非常に脆い皮膚をしています。強固な牙や爪も無く、それ単体では自然界では非常に弱い存在だと言えます。文明が発達した現代だって、ほとんどの人間は武器を常から携帯している訳ではなく、使いこなせる訳でもなく、ほとんどの野生生物に対して何の準備も無く直面してしまえばなすすべがありません。
そうした生き物としての弱点を何とか補うため考えた生き残るための戦略こそが「草木を伐採し、他の生き物が侵略できないよう土を固い物で埋め立てる」といった行動なのです。
そのことについて「他の生き物のすみかを奪ってしまって申し訳ない」などと考える必要性がどこにあるでしょうか。
他の生き物は常に虎視眈々と人間から住処を奪うことを考えています。しばらく放置された空き家だったり町だったりがどのような姿になっていくのか、私たちは知っているはずです。
上で述べた「平成狸合戦ぽんぽこ」についても、当時の人々は増えた人口分の住居を確保するため山を切り開きましたが、それは罪深いことなのでしょうか。罪悪感を覚えるべきことなのでしょうか。
山を切り開かなければ、増えすぎた人口はいずれ街中で溢れ、今度は人間同士の住居の奪い合いが始まっていたことでしょう。他の生き物を守るため、人間同士が争い合う……それと同じ行為を他の生き物がしていることを、一度でも見た人はいるのでしょうか。
そんなことはあり得ないことです。生き物として狂っているとさえ言えるでしょう。
日々を懸命に生きている存在は、皆全て他の生き物に罪悪感を抱えて生きて行く必要などないのです。なぜならば、自らの命を生き永らえさせようと努力するという点において全ての生き物は平等であるはずだからです。
なので僕は、これからも僕自身の命を少しでも生き永らえさせるために、今後も小屋暮らしをする中で土地の開拓を続けて行くつもりです。
それが山奥で一人生きる僕がやるべき全てだと考えています。
以上で今回の記事は終わりです。
また次回の記事でお会いしましょう。ここまでお読みいただきありがとうございました。